まずは磯部亮次が和ろうそく職人になったお話から始めさせていただきます。
数百年続く和ろうそく屋の次男坊として生まれた磯部亮次には当然ながら家業を継ぐという意識は低かった。末っ子の彼は、小学校が終わると父の仕事場に行き、たわいのない会話をするのが好きな子供でした。
和ろうそくじゃなくとも何かを作る仕事に就きたいと漠然と考えていた彼は大学卒業後、通信、今でいうITの会社に就職しました。彼が作っていたのはカラオケ機械の通信システムや銀行のATMといった仕組みでした。時代はバブル前、仕事は忙しかったけども、仕事はやり甲斐がありました。
仕事を初めて3年目。26歳の時に人生初の大きな決断を迫られる出来事がおきました。
父親が脳溢血で倒れたのです。
幸いなことに一命は取り留めましたが、集中治療室で絶対安静の状態が続きました。仕事人間の父親はお客さんから頂いた商品を納めなければとベッドの上で毎日悩んでいました。倒れた父の心労を少しでも和らげたいと、父の代わりに和ろうそくを作り始めたのです。
子供の頃、仕事場で見た父親の仕事ぶりを思い出しながら、毎晩、会社が終わると作業場に入り、ろうそくを作るようになりました。もちろん、父のようには商品が仕上がりません。ですが、お客さんは文句も言わずに購入してくれました。ただただ、嬉しかった。そして、何気なく綺麗な商品を作り上げる父の仕事の凄さを初めて実感した時でもありました。
結局、父親の半身に麻痺が残りました。以前のように満足な仕事ができないのは火を見るより明らかでした。数百年という伝統の灯を消すのも、残すのも自分次第。そう考えると迷いはなくなりました。自分の働いている会社に自分の代わりはいくらでもいます。しかし、磯部ろうそくには自分の代わりはいない。26歳は職人としては遅い仕事始めであり、大きなハンディでしたが、和ろうそく職人になると決めた以上、泣き言は言えない。人より数倍働いて追いつくしかない。誰よりも、和ろうそくに情熱を持っているのはハンディを取り戻そうとしてきたからです。
和ろうそく作りを通じて父との会話も増えてきました。時間はかかったけど、自分でも納得できる商品を作れるようになってきました。少し余裕ができてきて、和ろうそくを取り巻く環境に視野が広がるようになってきました。自分がいる和ろうそくの世界が衰退産業であると気づきはじめたのです。
和ろうそく業界をなんとかしなければ!
今回は和ろうそく職人になって2年後、磯部亮次、28歳の頃のお話です。
和ろうそくの製造技術も身についてきました。父の体調も少しずつ回復してきて心に余裕ができてきました。その頃から和ろうそくの未来を考えるようになってきました。
時代はバブル景気を迎えようとしていました。好景気の流れの中、和ろうそくには良い流れはやってきませんでした。それどころか、工場で大量に製造できる洋ろうそくに仕事を奪われていきました。
時代と共にろうそくを一般家庭では使わなくなり、神社仏閣、仏壇などに使うだけとなりました。完全に逆風。このまま何もしないでいると和ろうそくは無くなるのではないかと思うようになりました。
どうすればいいかと悩む前に「ダメで元々」だと、アポなしで行政に飛び込みました。そこで愕然とします。数百年もつづく日本の伝統である和ろうそくを支援する窓口が、国にも、県にも、市にもなかったのです。国指定や県指定、市指定の伝統的工芸品や伝統工芸に認定してもらうには組合という組織を作らなければならないというのを行政の人から聞き、全国の和ろうそく職人を調べて電話をかけたのですが、20代の若造の言うことを聞いてはくれませんでした。
人をまとめるには自分を信頼してもらえるような実力を付けなければいけないと感じ、まず個人でできる事を模索しはじめました。彼が始めたのが実演販売。知り合いを通じて和ろうそく職人で初めて百貨店での実演販売の場所を見つけたのです。お客さんが沢山あつまる百貨店の催事場で実際に手作りの和ろうそくを作って見せ、そして、自分の作った商品の素晴らしさをお客さんに説明してきました。彼と会話をするお客さんは喜んで買ってくれたのです。全国を転々としながら、見せることの大切さ、語る事の大切さをお客さんから学ばせていただいたのです。
新しい販売方法以外にも、日本一大きな和ろうそく作りにも挑戦しました。誰もやった事のないサイズの製造は毎日が手さぐりでしたが、父親と会話をしながら創意工夫して製造したことは良い思い出になっています。
テレビや新聞などの取材は積極的にうけるようにしました。それまで地元の人も岡崎で和ろうそくを作っている事を知らなかったのが、少しずつ変わり始めました。縁遠い物から身近な物へ、行動が結果となって現れるようになったのですが、業界が変わることはありませんでした。
やはり一人だけではダメだ。
同じ志を持った人たちとグループを作りたいと磯部は真剣に考えはじめたのです。
磯部亮次が個人での活動に限界を感じていた頃、同じように岡崎市の個人商店も時代の流れで閉店していく店が増えてきていました。岡崎の町を支えてきた康生地区にもシャッターが閉じたままの商店が増えてきました。人は元気な人のいる所、元気な場所に集まるものです。元気さがなくなりつつ康生の町に、人が集まらなくなってきました。
そんな時に行政と商工会議所とのタイアップで「康生地区の空き店舗対策事業」が行われることになりました。その中のひとつ「匠の館」への出展・運営協力の要請があり、磯部は即答で「やります」とお答えをしました。和ろうそくを地元の方々に知っていただく良い機会はもとより、地元のため、伝統産業のため。お引き受けする理由はたくさんありますが、お断りする理由は全くありませんでした。
また、岡崎には優秀な職人がたくさんおられるので、その方々と一緒に岡崎の素晴らしさを職人が作る物で発信できるのではないかとも考えました。そうして、「匠の館」という店舗を期間限定で立ち上げることができました。
この事業をやることで他の産業の職人さんとお話をする機会ができました。話をしてみると自分が抱えている悩みと同じような不安を感じていることが分かりました。期間限定だった「匠の館」の事業が終わり、協力してくれた職人さん達との打ち上げの席で「このような他業種の職人の交流の場を残していきたいね」って他の人から言われました。今まで職人との横のつながりがなかった磯部は正直嬉しかった。
「折角だから、岡崎市の顔になるような商品を共同で開発しましょう!」
という声が上がった。再び行政と商工会議所と一緒に職人の技術を使った岡崎市の特産品開発事業を「匠の館」で携わった12名の職人とスタートさせました。それが今日まで続く「おかざき匠の会」の発足のきっかけとなったのです。磯部の作る和ろうそくの為の燭台を石工の職人が作り、セットで販売したりしました。職人と職人がつながることで商品開発の幅が広がるというのを実感しました。そして多種多様な人材がそろうことで、衝突しながら前に進む苦しさ、そして形になった時の嬉しさも体験しました。
岡崎の匠を一つのチームを作り上げたことで、行政との交流も徐々に増え始め、少しながら支援もしてもらえるようになってきました。それと共に大きなイベントにも声がかかるようになってきました。
今回は磯部亮次が発起人の一人(初代会長は石工職人)としてスタートした異業種職人集団「おかざき匠の会」のお話です。2001年に正式に団体となった「おかざき匠の会」は情熱の塊でした。各種組合や団体に所属している若手職人たちは、時代の流れを何となく肌で感じていました。
「何かアクションを起こさなければ、自分たちの未来はない」
という感覚のある職人の受け皿にもなっていたのです。当然ながら個性のある職人を束ねるのは容易ではありません。しかし、物を作っている者同士、一杯酌み交わせば、共通の話題が見えてくるものです。他業種の先輩職人と一緒に岡崎の職人を盛り上げていきました。
2004年にとある誘いが「おかざき匠の会」にやってきます。次の年に開催される愛知万博に出展しないかという打診です。この誘いに会の意見は二つに割れました。当然ながら立ち上げて間もない匠の会では時期尚早であること、予算や日程調整をどうするかという現実的なこと、大きすぎるイベントに参加する不安はメンバー皆にありました。しかし磯部は何が何でも出展すべきだという考えでした。実績もない職人集団が万博に出展できるチャンスは今後来ないはず、参加を決めれば困難は沢山あるだろうが、その後に大きな自信になるのは間違いないはずです。
職人の多くは表にでなくても良かった。商品だけを作っていれば、商社が売ってくれる。しかし、そんな時代は終わっているのです。自分自身を自分がプロデュースする時代がやってきています。匠の会のメンバーの肩書きに「愛知万博出展」と書くことができれば、職人たちの今後の人生に大いに役立たせることができると確信していました。陰ひなたにいてばかりの職人を主人公にさせる事を目標として万博出展を訴えたのです。
動き出したら止まらない。万博にむけて海外のアーティストと匠の会のメンバーとで共同作品を作成したり、展示方法を考えたり、そして支援してくる人を募ったりと仕事の合間をぬって情熱を傾けました。振り返えってみれば、全てが楽しい思い出です。万博出展を止めておけば楽でした。あの時、きっと楽をしていたら、今頃「おかざき匠の会」は存続していなかったかもしれません。常に情熱を傾け、創意工夫をすることで人は成長していくのです。それを仲間とともに体感できたのです。
磯部には夢があります。
“職人の地位を高めたい”
という事です。行政の方々と各種イベントを一緒にやるようになったことで職人の立場も少しずつ理解してくれるようになりました。しかし、まだまだです。岡崎に居た手作りでつくる線香花火の職人さんがお亡くなりになった時に行政の人が寂しげに
「岡崎の風物詩が一つ無くなっちゃいましたね」
と磯部に言いました。その言葉に腹立たしさを覚えたのを今でも覚えています。岡崎市にとって大切な物だと分かっていたなら、何故生前に手をうたないのだろう?守るべき価値のあるものならば、後継者育成などを支援すべきだったのです。もう同じような事をさせたくない。職人を岡崎市の観光資源にすることができる。そんな思いを少しずつ感じていくのであります。
異業種職人集団である「おかざき匠の会」は大きなイベントであった愛知万博に参加したことで知名度が一気にあがりました。しかし、磯部の心の中にはどこかモヤモヤしたものが何時もくすぶっていました。それは和ろうそく業界の事です。
全国各地に少ないですが和ろうそく屋は点在しています。現在では20軒ほどとなっており、増える事はありません。20軒ある和ろうそく屋の中で岡崎市には3軒の和ろうそく屋が集中しています。また、同じ灯りとして灯明油を作っている会社も岡崎市内にあります。伝統的な灯り文化を作る職人が岡崎市に集中しているのです。
このような市町村は岡崎市以外ありません。岡崎市を「あかりの町として盛り上げる事ができないか」と日ごろから思っていました。
しかしながら、和ろうそく組合が存在しないので、同業者とお会いする機会がない。それどころか当時は仲間という意識よりも商売敵という認識の方が強く、半分無理だとあきらめていました。とは言え、出来ることからコツコツやっていくのが磯部の考え方。今はダメでも未来になれば出来るかもしれない。そんな思いで「あかり」について学ぶことにしました。日本の伝統のあかりである灯明油や和ろうそくから始まり、あかりを灯すための道具や燭台に興味を持ち、最後は照明器具まで学びました。
そんな折、2011年大きな事件がおきました。
それが磯部ろうそく店の火災です。
コツコツ積み上げてきた歴史が全て灰となりました。店を復興しようにも和ろうそくを作る道具がないのです。和ろうそくの道具は特殊なものばかりなので製造している職人もいない。これですべてが終わった。そう思った矢先に廃業する和ろうそく屋さんが道具を全て譲ってくれました。同業者は商売敵なんかじゃなかったのです。職人から仕事を取り上げたら何も出来ないタダの人です。仕事が自分の自信になっていました。そしてどん底で困っていた自分を数えきれない人に背中を押してもらった。逆に立ち止まれなくなりました。応援してくれる人の為に以前より立派な磯部ろうそく店にしなければと決意したのです。
夢はあきらめなければ絶対叶う。
今まで交流のほとんどなかった岡崎市内の和ろうそく屋があつまって「おかざき灯りプロジェクト」を立ち上げることができました。講師としてノーベル賞を受賞された名古屋大学の天野教授にLEDのお話もしていただきました。
谷崎潤一郎さんが「陰影礼賛」という言葉で日本の美を表現しました。陰影の中でこそ日本の美しさは発揮します。そして人生もそうです。どん底で真っ暗闇だと思った時だからこそ、小さな救いの光が見えるのだと思います。それは自分が元気な時には見えない光であり、その地味な光を放ってくれる人物こそが本当に感謝すべき人たちなのかもしれません。人間万事塞翁が馬を体験させてくれたのが磯部ろうそくの火災でした。
「多忙は幸福です。多忙な人間は多望な人間、つまり希望の多い人間ということだから。」歴史小説家の城山三郎さんの言葉です。
それを地で行く生き方をしているのが磯部亮次です。人から頼まれれば「無理」とは言わなかった。気が付けば、いろいろなしがらみの中で人間形成をさせてもらってきた。個人事業主の磯部亮次には会社に頼りになる先輩もいなければ、慕ってくれる後輩もいない。人とのつながりは磯部亮次にとって一番の宝物であります。
まずはJCに誘われ入会すると卒業前には副理事長や監事をさせてもらいました。JC卒業後には商工会議所青年部と青経連(岡崎市青年経営者団体連絡協議会)において、なんと会長を続けてさせていただいた。岡崎市に大きな会社は沢山あり、事業規模を考えれば引き受けるべきではなかったと今でも考えています。しかし、磯部亮次を引き上げてくれた先輩方や同輩が足りない部分はサポートしてくれました。今でも本当に感謝しています。
立場が人を作るという場合が多々あります。職人が普段の仕事ではスーツ姿になることはありません。人前で熱く語る必要もありません。諸団体のトップともなれば、そんなわけにはいきません。自分をサポートしてくれている先輩方が作り上げた歴史に泥を塗るわけにはいかないのです。そんな思いで大役をこなしている間に時間が過ぎていきました。大きな会社の社長でもない自分を引き上げてくれた先輩のように、自分も後輩の為に何かやらなければと常に思うようになりました。大人の男は背中が大事だと先輩たちの行動で理解したのです。先輩たちのように頼りになる男でありたいと常に思うのです。
磯部ろうそく店が火事になった時にも多くの人に支えてもらいました。そのご恩をどうにか返したいと思っています。その一つが岡崎市を元気にすることかもしれません。岡崎市は合併しながら大きくなってきました。未だにその影響が残っているような気がしています。岡崎はもっとよくなると磯部は考えています。お城があり、文化があり、職人がいて、仕事もある。素敵な要素が沢山あるのですが、沢山あるがゆえに活かしきれていないような気がするのです。もう一度岡崎のよい所を見つめ直し、発信をしていくことで元気な岡崎にしていきたいと思うのです。郷土を誇れることは大切です。江戸を作ったのは我々岡崎市の先祖たちです。そのプライドを若い人たちが実感できる岡崎にすることを皆で考えていければと磯部亮次は思うのです。
磯部ろうそく店が火災にあった2カ月後の3月11日に東日本大震災が発生しました。自分の店の復興がままならない状況でしたが、津波によって破壊されていく町の姿は磯部亮次の心をかき乱していました。自分にできることはないのか?と自問自答する日々を送るのです。あの大震災でライフラインは全て停止し、電気も止まり、スイッチ一つで灯った照明がつかなくなりました。人々はロウソクの小さな灯りの元に集って不安な夜を何日も過ごしたと聞いています。自分の仕事で人々を安心させられると思ったのですが、そんな状況ではありません。
磯部ろうそく店の復興が見えてきた秋ごろ、知り合いから磯部ろうそく店の和ろうそくを使って被災地イベントをやりたいと申し出がありました。和ろうそくを2本並べると数字の11に見えるという事で2本の和ろうそくに願いをかけるという企画のイベントでした。2本ある和ろうそくのうちの1本は被災地の為、もう1本は身近な人のために祈りましょうというコンセプトはすごく共感できました。社会貢献は無理してまでやってはいけないし、無理だからといってやめてもいけない。自分の丁度良いバランスでやれることをやればいいのだと教えられました。自分も東北の為に何かできる事はないかと2011年11月に初めて被災地を訪れました。
被災地で感じたのは寂しさでした。磯部ろうそく店の復興には何十人もの人が助けてくれました。自分1人を救うのに必要な人員がそれだけいるのです。ここで被災された人たちを助けてくれる人はどれだけいるのだろうか?漢字が表すように、人は支えがなくては倒れてしまいます。とはいえ自分一人では支えきれるほど甘くはない。それが現実なのだと感じました。被災地の方々は一様に「来ていただけるだけありがたい」とおっしゃってくれます。だから思うのです。被災地を忘れてはいけないと。
震災発生から5年、隔月の奇数月には被災地イベント「祈りと和」を開催しつづけています。大きな支援ができなくても、長い時間つながり続けることも大切だと思っております。今年に入って九州地方でも大きな地震がありました。この地方でも、いつ発生してもおかしくないと言われている東海地震も懸念されます。天災はいつ起こるかわかりません。
災害が起こる前の平時にできる事を考え、備えをすることは大切です。災害の時に被害にあうのは弱者です。そして細かな情報を把握するのは小さなネットワークを持ったコミュニティです。地域での連携こそが確かな社会貢献だと思っています。隣の家に醤油を借りに行ける顔が見える地域こそが災害や防犯に強い地域だと思っています。